またまた、角田光代さんのエッセイを読みました。今回読んだのは、『幾千の夜、昨日の月』という本で、夜についてのエッセイをまとめたものなのかな。そこでとても共感できるというか、素敵な話があったので紹介したいと思います。
それは、角田さんがエジプトの川下りクルーズに参加した時のこと、談笑していた船の作業員が突如イスラムのお祈りを始めたのを見て、お祈りが日常化している文化ってうらやましい、という話です。
なぜか。彼らのあまりに日常感たっぷりの、特別な感じのしないさりげない行動から、お祈りでの願いは、
「億万長者になりたいとか名声がほしいとか馬鹿でかいものでは決してなくて、また、車がほしいとか新しいテレビがほしいといった具体的な物品欲とも違って
(中略)
妻や子どもたち、両親や祖父母、愛する人が今も明日も笑っていますように、今日ごはんをおいしく食べたように明日も食べられますように、今日と同じく明日も何ごともなく終わりますように」
といった素朴な幸せだろうと(もちろんこれは角田さん個人の見解というか想像であるとご本人も書いておられます)推察します。
そして、
お祈りではだれもがちょっといいことを考えるはずだ。こうでありますように、とか、こうなれますように、とか。それは自分のなりたいもの、手に入れたいもの、つまるところ「幸福」というものの中身を、日々確認する作業ではないかと思うのだ。そうしたことをごく自然に、ごく日常的に行えることを、私はうらやましく思う。
と続きます。つまりは、毎日自然に、ちょっとした幸福に想いを馳せることができる、それってそれだけでとっても幸せなことなんじゃないか、というわけです。
これを読んだ時、そうだな、素敵な話だなと思いました。また日々まあまあつつがなく暮らせていけていることも「幸せ」なんだろうという、感謝の念みたいなのも湧いてきました。そして、その幸せを毎日思うことは、確かにそれだけでさらに幸福感を味わえ、翌日への力になりそうです。この話の舞台はエジプトなので、お祈りをしていた作業員はもちろんイスラム教の人々なのですが、仏教徒でも同じようなことはもちろんできるはず。実家の母がいつも仏壇の前で手を合わせているのも、そういうことなのかもしれません。
とにかく、幸せは自分の心が決めるとも言いますが、自分のために、日々の幸せを感じながら、素朴な幸福に触れながら、謙虚に日々を送っていきたいなと、心を新たにしました。角田さん、素敵なお話をありがとうございました。